全日本女子バレーボールを率いる監督の中田久美さん。
バレーを中学1年生で始め、なんと中学3年生の時に日本代表になっています。
きっかけは中学の時に見つけた雑誌の募集記事だったようです。
今回は、中田久美さんの中学時代の転機となったエピソードについてお伝えします!
Contents
中田久美がバレーを始めたのは中学1年から!
中田久美さんは中学1年生の時からバレーを始めています。
小学校時代は何をするにも長続きしなかったようですが、どんな子供だったのでしょうか。
中田久美さんは1965年9月3日生まれ、東京練馬区出身。
子供時代は活発で友達が多く、学校が終わるとかばんを置いて、日が暮れるまで遊んでいたそうです。
自分に責任を持つことを厳しく育てられたそうですが、やりたいことは何でもさせてくれたそう。
水泳、テニス、バスケット、そろばんなど、様々な習い事をしていたそうですが、どれも長続きしなかったといいます。
中学は地元の練馬区立練馬東中学校へ進学。
バスケ部に入ろうとしたところ、ママさんバレーをしていた母親からバレーボールを勧められたそう。
また、当時流行っていた「アタックNo.1」というアニメの影響もあり、主人公を目指そうと思いバレー部に入部しました。
中田久美さんの母親
地元の中学へ進んだ中田久美さんですが、中学3年生で日本代表になっています。
そんな短期間で、どうやって力をつけたのでしょうか?
中田久美が中学で日本代表に!
中学1年からバレーを始めたにもかかわらず、中学でのバレーは1年で物足りなさを感じたそう。
そんな時、「月刊バレーボール」という雑誌に載っていた “山田少女バレー塾” の広告を見つけます。
バレーボール日本代表の山田重雄監督が立ち上げたという、英才教育チームの「L.A.エンジェルス」のメンバー募集記事でした。
「これだ!」と思った中田久美さんは、中学2年に上がる春に応募し、全国から集まった900人と一緒に試験を受けました。
バレー経験豊富な応募者ばかりの中で、まだ始めて1年の中田久美さんは、テストを受けに来た中で一番キャリアが浅かったそう。
しかし、なんと7人の合格者の一人に選ばれます。
色々なテストがあり、目立った成績を残せなかったものの、誰よりもジャンプが高く飛べたそうです。
「当時は身長が168cmだったんですが、最高到達点が2m86cmでした。その時に山田先生が『凄いね君は』と言ってくれたことを今でも鮮明に覚えてくます。」
引用元:https://www.suku-noppo.jp/pro/21/004.html
山田監督曰く、当時セッターを探していたそうです。
「セッターだけを追い求めていた時に、中学2年の彼女が来て、これだ!と思った」と語っています。
中田さんはセッターをやったこともなかったそうですが、山田監督はセッターをやるように言ったそうです。
「驚きました。セッター? 何それ、って感じだったのです。なにしろ900人もいたのですから。選ばれることなんて考えもしなかった。先生があとで言うには、目が違ったそうです」
引用元:http://www.asahi-net.or.jp/~mu2m-msjm/stadium/works/olympic/fujinkoron/990507.html
山田監督によると、中田久美さんの「目が綺麗だった」とのこと。
また、手首の柔らかさが良かったと言います。
バレー経験の浅かった中田久美さんですが、山田監督はその才能をすぐに見極めたようです。
その後、夏休み中は1日10時間のトレーニングなど、過酷な練習を積み重ね、
1980年の中学3年生の時に、全日本女子バレーのメンバーに史上最年少で選ばれました。
中田久美の中学卒業後は?
中学卒業後は日立に所属し、全日本メンバーと共に、日立の黄金時代を築きました。
ブロックの江上選手(現在丸山由美)、スパイクの三屋選手、そしてセッターの中田選手の攻撃は、男子バレー並みのスピードと多彩さだったと言われています。
トスの速さ、ネット上の高い位置でのプレー、それにブロック力と攻撃力もあり、まさに男子なみのスピードと多彩さを 持っていた。
引用元:https://www.vleague.jp/about/history/1982
最年少で代表入りした中田久美さんは、ひたむきにトスを上げる姿、そしてその技術力の高さで大人気でした。
当時のバレー選手は熱狂的なファンに追いかけられ、試合前後の移動も大変なほど人気だったようです。
高校は、バレーボールに専念するため、通信制のNHK学園高校を卒業。
その後、1984年ロサンゼルス、1988年ソウル、1992年バルセロナと3度のオリンピックに出場。
ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得しています。
1993年に一旦引退をし、モデルに転身。
1998年10月にセミヌード写真集も発売しています。
▼モデル時代の画像はこちら
1995年に一旦現役復帰しますが、1年後にコーチに。
その後は、モデル、指導者、解説者として活動しています。
また、1995年、29歳のときに一般男性と結婚しています。
結婚からわずか3年で離婚。二人の間にお子さんはいません。
2012年に久光製薬スプリングス監督に就任。
2016年に日本バレーボール協会理事会にて満場一致で、バレーボール女子日本代表の監督に選出されました。
まとめ
今回は中田久美監督の中学時代のエピソードについてお伝えしました。
中学の時に見つけた英才チームの記事が転機となり、山田監督の元に。
過酷なトレーニングを積んで力をつけ、中学3年で日本代表に選ばれました。
やったことのないセッターで活躍し、現在では日本代表監督に。
今後の中田久美さんの活躍にも注目したいと思います。